この10年で、大学に行くことの価値は大きく変化しました。
かつては当たり前だった「大学は人生の成功へのパスポート」という常識が、今や揺らいでいます。
多くの人が疑問に感じているように、インターネットの普及、労働市場の変化、そして社会全体の価値観の多様化によって、大学の存在意義そのものが再定義されようとしているのです。
本稿では、なぜ大学に行くメリットが減ったのか、そしてそれでもなお大学が持つ価値は何かについて、多角的な視点から考察していきます。
大学に行くメリットが減った理由

なぜいま大学に行く理由が薄れたんだろうか?



まあ時代がやっぱ大きいな
インターネットで学習コンテンツと同等な情報を得られるため
かつて、書籍しかなかった時代には、専門的な知識を得るためには大学のような機関に属することが不可欠でした。
教授の講義を直接聞き、図書館で専門書を読み漁ることで、初めて高度な学びに触れることができたのです。



しかし、今はどうか?
YouTubeやブログ、オンライン学習プラットフォームのUdemyやCourseraなど、質の高い学習コンテンツがインターネット上に溢れています。
これらのコンテンツは、書籍よりも視覚的で分かりやすく、また自分のペースで学ぶことができます。
大学の講義と同等、あるいはそれ以上の内容を、はるかに安価に、そしてどこにいても学ぶことができるようになったのです。
この変化は、特に一般的な教養科目や、プログラミング、デザインといったスキル系の分野で顕著です。
もはや「学ぶためだけに大学に行く」という理由は、説得力を持たなくなりました。
これは、学ぶことのハードルを大きく下げた一方で、大学が「知識の供給元」としての役割を失いつつあることを意味しています。
雇用そのものが成立しなくなった
大学に行く最大の理由は何でしょうか。
多くの人にとって、それは「就職するため」でしょう。
大学は、より良い企業に入るための「就職予備校」としての機能を長く担ってきました。



しかし、この前提が根本から崩れつつあるよ
ここ10年ほどで、私たちは働き方の多様化を目の当たりにしてきました。
会社に属さず、フリーランスとして活動する人が増え、また、短期で会社を辞め、転職を繰り返す人も珍しくなくなりました。
これは、労働市場が人材不足時代に突入したことを示しています。
かつては「大卒」が絶対条件だった大手企業でさえ、優秀な人材を獲得するために高卒採用を始めたり、学歴不問の求人を増やす動きが見られます。



もはや「大学を卒業したから安泰」という時代は終わった証拠。
会社が従業員を一生涯面倒見るという「終身雇用」の概念が揺らぎ、個人が自律的にキャリアを築く時代へと移行したことで、大学の「就職予備校」としての価値は相対的に低下しました。
大手企業や公務員に就職する魅力が減ってきている
これまでの日本では、「良い大学に入り、良い会社に入る」という人生のレールが敷かれていました。
「良い会社」とは、主に大手企業や安定した公務員を指します。
しかし、この価値観も今、大きく変化しています。



2025年、日本ではデモにまで発展。
この出来事は、長年信頼されてきた大企業や政府に対する信頼を大きく揺るがすきっかけとなり、大学も例外じゃありません。
もっと言えば2020年ぐらいのコロナをスタートしてから国民目線ではスタグフレーション、政府目線はインフレーションという最悪なインフレから本格的に国民の怒りが爆発が始まったんですけどね。
また、多くの大手企業が海外市場への依存度を高めていたため、トランプ大統領時代の関税政策のような国際情勢の変化に脆弱であることが露呈しました。
デモの現場が騒然としているように、かつて憧れの的だった大企業が、今や社会の矛盾の象徴として見られることもあります。
このような状況下で、「ただ安定しているから」という理由だけで大手企業や公務員を目指す若者は減少し、それよりも自分の価値観に合った働き方や、社会に貢献できる仕事を選ぶ傾向が強まっています。
そもそも大学の費用が高すぎる
あとはそもそもの話大学の費用が高すぎることも、進学をためらう大きな理由の一つです。



これは日本に限らず世界どこでもそうだけど、とくに日本は大学の費用が国が負担せず、代わりに奨学金で対処しているためかこの負担が大きい。
4年間で数百万円、私立大学であれば中古車一台分にもなるような費用は、多くの家庭にとって大きな負担です。
この費用の大部分が、人件費や施設の維持管理費に充てられています。
一方、インターネット上の学習コンテンツは、同じ情報量や質でも格段に安価に提供されています。
このコストの差は、「学ぶこと」自体の価値を見直すきっかけを与えました。
従来の教育システムが持つ「人件費の重さ」を、インターネットの登場が浮き彫りにしたのです。
生活で稼ぐ時代が本格的に始まる
副業や転職がトレンドとなり、個人のスキルを活かして複数の収入源を持つ「パラレルキャリア」が一般的になりつつあります。
これはまだ過渡期に過ぎず、今後はさらに進化していくでしょう。



そもそも副業や転職とかは時代の後継先とかじゃなく、実は過渡期というものに過ぎなかった。
副業が過渡期だったの理由


インターネットは流行り廃りが激しいですが、それをうまく利用することで、個人が経済的に自立できる可能性が大きく広がっています。
最終的には仕事をする自体そのものが時代遅れになってきていく


お金そのものが今、見直しをされている
最後に、切っても切り離せない問題が「お金」そのものの存在意義です。日本円に限らず、世界中の法定通貨がその価値を問われ始めています。その最大の要因は、ここ10年で急速に普及した暗号資産です。
ビットコインを筆頭に2000種類以上あるとされる暗号資産は、一部の国で法定通貨として認められるほどになりました。
中央銀行や政府の管理下にない、分散型の通貨である暗号資産は、既存の金融システムを根底から揺るがす可能性を秘めています。
このような状況下では、従来の「お金を稼ぐための教育」としての大学の役割も、再考を迫られることになります。
大学も生き残りのために焦り始めてきている
長らく停滞していた日本の教育界において、大学は数少ない成長分野でした。
少子化が進む中でも、多くの大学が新設され、適当なカリキュラムでも学生を確保することができていました。



Fらんとかでもガッポガッポ!
しかし、時代の変化とともに、この「既得権益」も終焉を迎えつつあります。
お金の価値観が変わり、少子化がさらに進むことで、閉校する大学も増えてきました。
この状況は、大学間の競争を激化させています。
大学は、他の大学との学生の奪いの勝負だけでなく、「大学に行かなくても良い」という情報を発信する我々のような個人や、AI技術の発展とも戦わなければなりません。



つまり戦う相手は何種類もいるということ
AIが進化し、単純な知識労働が代替されるようになれば、大学で学ぶことの価値はさらに問われることになるでしょう。
これまでの「知識の詰め込み」だけでは、未来を生き抜く力は身につきません。
大学は、自らの存在意義を根本から見直す時期に来ているのです。
今大学に行くメリットは?
デメリットようなことばかりを挙げてきましたが、それでもなお、今も大学に行くメリットは存在します。
それは、インターネットでは代替できない、貴重な体験に集約されます。
高度で貴重な学習があるもの
インターネット上の学習コンテンツは豊富ですが、大学でしか得られない知識や経験もあります。
特に、最先端の研究分野や、膨大な設備を必要とする実験などは、大学という環境だからこそ可能です。



この辺だと高校生までは真似できないよな…
ノーベル賞を受賞するような研究者や、世界的なクリエイターから直接指導を受ける機会は、大学でしか得られません。
コミュニケーションは取りやすい
大学生活で得られる最大の資産の一つは、人とのつながりです。
学友や教授との直接的なコミュニケーションは、オンラインでは得られない深い学びや、新たな発想を生み出す源となります。
共に議論し、課題を乗り越える経験は、単なる知識以上の価値を持ちます。将来の共同プロジェクトやビジネスパートナーとなるような、かけがえのない人間関係を築くことができます。
インターネットだけじゃ真似できない体験
大学は、単なる学びの場ではありません。
サークル活動、学園祭、ボランティア、留学など、多様な経験を通して自分自身を成長させる場です。
これらの体験は、個人の人間性を豊かにし、社会で生き抜くための実践的なスキルを磨くことができます。
インターネットでは得られない、五感を通して感じるリアルな体験こそが、大学の最大の魅力と言えるでしょう。
まとめ
現代において、大学に行くことのメリットは、かつてに比べて大きく減少しました。
知識を得るだけであれば、インターネットがはるかに効率的で安価です。
労働市場の変化やお金の価値観の変化も、従来の大学のあり方を揺るがしています。
しかし、それでもなお大学には、インターネットでは真似できない「体験」という唯一無二の価値が残されています。
高度な研究、直接的な人間関係、そして自分を成長させるための多様な機会。
これらの「体験」にどれだけ価値を見出し、それを活かせるかが、これからの大学選びにおいて最も重要なポイントとなります。
情報が溢れる現代では、何が正しく、何が自分にとって価値があるのかを自分で判断する力が不可欠です。
この記事もあくまで一つの情報に過ぎません。大学進学という高額なサービス料を払う前に、本当にその「体験」が自分にとって必要なのか、慎重に考えてみてはいかがでしょうか。