現代社会は、日々進化するテクノロジーによって、信じられないほど便利になりました。
スマートフォン一つで世界のどこにいても人と繋がり、欲しいものは翌日に届き、料理は家まで運ばれてくる。
かつてSFで描かれたような未来が、今まさに現実となっています。

しかし、この行き過ぎた「便利」は、本当に私たちを幸せだろうか?
もしかしたら、その裏で、私たちは何か大切なものを失っているのかもしれません。
この問いかけは、今、多くの人が心のどこかで感じていることではないでしょうか。



今回は便利すぎた末路について少しだけ語ろうと思う
便利すぎると実はかえって不幸?
私たちの生活は、あらゆるものが効率化され、無駄を削ぎ落とすことに特化してきました。
スマートフォンがあれば地図はいりませんし、SNSを使えば友人との連絡も一瞬です。
フードデリバリーを使えば、お店に足を運ぶ必要も、料理をする手間もありません。
たしかに、これらは私たちの時間を節約し、日々のタスクを楽にしてくれます。



けどちょっとまってほしい!
その「楽」と引き換えに、私たちは「経験」というかけがえのないものを手放していないでしょうか。
例えば、新しい土地を歩き、迷いながら偶然見つけた素敵なカフェ。
友人との待ち合わせに少し遅れ、慌てて走る間に感じる焦燥感と、再会した時の安堵。
自分で一から食材を選び、時間をかけて料理を作り、誰かと食卓を囲む喜び。
これらは、便利さの追求の中では削られていく、人生の「味」です。
便利がもたらす一瞬の快楽は、まるでジャンクフードのように、空腹は満たしてくれますが、心を満たす深い満足感を与えてくれません。



たしかに家にいても食べているだけでなんだか日常化しているような…
そして、私たちはその味気なさに気づかぬまま、次から次へと新しい「便利」を追い求めてしまうのです。
なぜ便利になると不幸になっていくのか?



それでどうして便利すぎると不便になるのか…
なんとなくだけど、そのはっきりとした理由がわからない



これはいくつか考えられるが、とくにこの3つはほぼ確実な理由じゃないかと俺は思う。
これまでの工程の中身が失っていく
まず人間は、何かを達成した時に大きな喜びを感じるようにできています。
例えば、時間をかけて計画を立て、ようやく実現した旅行の達成感。
何度も試行錯誤を繰り返し、完成させた作品への愛着。
これらは、結果だけでなく、そこに至るまでの「過程」があったからこそ得られる感情です。



にゃももは、受験に行くまでの過程、いろいろと猛勉強とかしていたよな?



たしかに私も高校受験したとき本当にうれしかったかも…



というようにこの過程こそが印象深く残る。



昔の人が表情が明るいのは?



次々と未知なものができあがったからだろう。
新幹線とかも当時は画期的だったしのってみたいという夢があるし。
しかし、便利すぎる世界では、この「過程」がどんどん省略されてしまいます。
ボタン一つで手に入る結果に慣れてしまうと、私たちは自ら努力して何かを成し遂げる機会を失い、それに伴う達成感や喜びも感じにくくなってしまいます。



だからあえて俺は3DCG Gen2という未知なる新技術の開発へ挑戦することにした。
時間に追われ心を荒くなる
理想論上便利なツールは、私たちの時間を「増やす」と言われます。
しかし、実際にはどうでしょうか。
メールやメッセージはいつでも届き、SNSは常に新しい情報で溢れています。
便利になったことで、私たちはかえって「いつでも繋がっていなければならない」「すべての情報を把握しなければならない」というプレッシャーに晒され、常に時間に追われる感覚に陥ってしまいます。
その結果、私たちはゆっくりと物事を考えたり、何もしない時間を楽しんだりする心の余裕を失っていきます。
せっかく節約したはずの時間は、別のタスクや情報収集に費やされ、私たちはいつの間にか心が荒んでいくのです。



人は他人のためは損だという考えが誰しも持っている。
けど知らんうちにいっぱい持ってかれるから心を荒れていく
仕事が増える
テクノロジーの発展は、仕事の効率化をもたらしました。
しかし、それは「より多くの仕事を、より早くこなせるようになること」を意味します。



でもあんまり楽になったのを聞いたことない…



これはグローバリズムが「生産性向上」という呪いをつけ、どんどん効率を上げさせ、資本家のためだけに豊かになったのにすぎない。



結局は自分の利益のためなんですね



まあ資本主義を終わらせないとこのままずっとだろうな。
それか仮想通貨で対抗できるものを用意するなど…
かつては専門家が行っていた作業が自動化され、その結果、私たちの仕事の範囲は広がり、求められるタスクの量も増えています。
便利になったはずなのに、私たちはかえって仕事に追われ、精神的・肉体的な疲労を感じやすくなっているのが現状です。
これは、テクノロジーが私たちの生活を楽にするはずが、いつの間にか私たちを「より働かせる」ための道具になってしまっていることを示しています。



でもこれは逆に気づいたかもしれない
それはいくらやってもやっても日本はそもそも労働執着文化というものに根付いているのを直さない限りはずっとそのまま。
この働かせるというのはむしろ離脱させ、金で私腹を増やす天下りや経営者にとって困るものへと変わっていくから。
もうこれからは便利の執着を抜け出し、中身のある時代へ
私たちは、この「便利さ」という呪縛から解放され、もっと人間らしい、豊かな生活を取り戻す必要があります。
それは、全ての便利さを捨てるということではありません。
本当に価値のある「不便」を意図的に取り入れることです。
例えば、デジタルデトックスの時間を設ける。
スマートフォンをオフにして、読書や散歩に集中する時間を作ってみる。
友人や家族との連絡は、メッセージだけでなく、直接会って話す機会を増やす。
また、私たちはこれから、モノやサービスを消費するだけの受動的な存在から、自ら創造し、経験する能動的な存在へとシフトしていく必要があります。
例えば、SNSは、いずれにしろメタバースへと進化していくでしょう。
しかし、それは単に仮想空間で交流するだけの場所ではありません。
自分だけの空間を作り、そこでアート作品を展示したり、イベントを開催したり、ゼロから何かを生み出すための「創造」の場になるはずです。
フードデリバリーも今は家にいるのが主流ですが、今後は外食が中心になると言われています。



これは持たない時代にその先に至るものの理由だが
それは単に料理を食べることだけでなく、シェフやお店の人との会話、そこに集まる人々との出会いなど、その場にいるからこそ得られる経験を重視するようになるでしょう。
そして究極は、忙しさの元凶となるスマートフォンそのものが、いずれは私たちの生活から姿を消すかもしれません。



もう成熟期になり進化もしない。
Switchのように新しい形へ進化をするようなものがない限りは衰退するだろう。
それは技術の衰退ではなく、もっと人間らしい、直接的なコミュニケーションや経験を求めるようになるからです。
スマートフォンに代わり、より身体的で直感的なインターフェースが普及し、私たちはテクノロジーを意識せずに、現実世界に深く没入できるようになるはずです。
これからの時代は、ただ便利さだけを追求するのではなく、人生の「味」を大切にする時代です。
それは、不便さを楽しむことでもあり、手間をかけることで得られる喜びを再発見することでもあります。
私たちは、行き過ぎた便利さがもたらした空虚感から脱却し、もう一度、自分の手で、足で、心で、人生を創造していく力を取り戻していく必要があるのではないでしょうか。