誰もが口にする「普通」。それは老若男女、多くの日本人がなんとなく共有している価値観です。
しかし、この「普通」という言葉の裏には、知らず知らずのうちに私たちを縛りつけ、不自由にする「呪い」のようなものがあると思いませんか?
近年、「多様性」という言葉が浸透しつつありますが、それでも「普通の枠」から少しでもはみ出たものに対して、違和感を覚えたり、排除したがったりする傾向は根強く残っています。
この記事では、私たち日本人の「普通の人の基準」となっている、多くの人が考えている価値観(対立的な距離が比較的小さい、約8割以上の人が共有している考え)を掘り下げていきます。
ただし、殺人といった世界共通の倫理観に基づくものは除外し、日本社会特有の、あるいは強く表れている価値観に焦点を当てます。
TITAN要は日本の常識は世界の非常識ということだ
この「普通」の正体を知ることで、私たちはその呪縛から解放され、もっと創造的で自由な生き方を見つけるきっかけにできるはずです。
労働をすることの価値が高いという考え
とにかく日本社会では「労働する人は偉い!」という思考が多すぎます。



これは本当にはっきりといって病気
「働かざる者食うべからず」という言葉もある通り、お金を稼ぐ手段が労働に偏重しすぎているのが日本の特徴です。
海外、特にヨーロッパなどでは、必要以上に働くことは「懲罰」や「不幸」と見なされることも少なくありません。
これは、労働せずに資産運用だけで生きている人を「けしからん!」と見なす、日本独特の価値観の表れです。
筆者も経験がありますが、仕事以外で成果を出しても「趣味でしょ?」とか、「そんなことでお金になるの?」といった反応が返ってくることがしばしば。



お金と仕事のばっかりでうんざりだ。
労働以外で収入を得るという発想が、多くの「普通の人」には欠けています。
ちなみに、最近増えてきた副業も、結局は労働(時間を切り売りすること)です。



形は変えどもも実態は労働であることには変わりない!
そこじゃないよ!




もちろん、近年はNISAなどで投資を始めて資産を増やそうとする人は増えてきました。
これは良い傾向です。
さらに進んで、WEB3の世界では、DAOに参加したり、NFTアートを制作・売買したり、ゲーム(P2E:Play-to-Earn)をしたりと、生活や趣味が直接お金を稼ぐ手段になる新しい選択肢が生まれています。
「労働=美徳」という価値観は、労働執着文化の最たるものです。
ここから少しずつ脱却するために、「ちょっとしたこと」で自己実現とお金を両立する方法を探り、社会全体でこの呪縛を解いていく必要があります。
お金がないと生きていけないという「洗脳」
「お金がないと生きていけない!」という、お金への極端な依存に対する思考が、日本の「普通の人」には本当に多い。
この洗脳は、非常に良くないことです。



そもそも、あなたがいま持っているお札の正式名称は何でしょうか?
意外と意識していない人が多いのですが
それは「日本銀行券」です。
つまり、日本銀行がお金(日本円)を発行し、その仕組みを維持しているということを示しています。
ここで言いたいのは、日本銀行券こと日本円は、タダの「モノ」(中央集権的なシステムが保証する交換券)に過ぎない、ということです。
「お金がないと生きていけない!」と思い込んでいる時点で、思考停止していると思った方が良いかもしれません。
お金はあくまで交換券、価値の媒介物です。



こんな資産価値が低くなるものにいつまで執着しているんだ?と問いたい。
同じ金額でも経年すれば価値が減ります。
もっとも明治維新以前は日本円は存在しませんでしたし、もっと昔は多くの人が自給自足の生活を送っていました。
現代においても、ホームレスの人がお金を持たないながらも生きているという現実があります(彼らが幸せかどうかは別として、生存はできている)。



いきなりだけど
試しに一度、マインクラフト(マイクラ)などのゲームをプレイしてみることをお勧めします。
あのゲームは、原始時代を再現し、資源の採集から家作り、サバイバルまで、お金がない世界でのサバイバルを体験できます。
ゲームという形ではありますが、「お金なしでどう生きるか」のヒントを得られます。


また、最近では「ゼロ円物件」といって、誰も住まなくなった家を無償で譲渡するケースや、「いらないモノを引き取ってほしい」という需要も増えてきました。
本当に必要なモノと、不要になったモノを交換するコミュニティなども生まれています。
本当の豊かさとは、物質的なもの(お金や所有物)と、精神的なもの(時間、健康、人間関係、自己実現)のバランスの上に成り立ちます。
お金への過度な依存から抜け出し、「豊かさ」の定義を広げることが、脱・労働執着文化への第一歩です。
極限まで便利にする!不便なことをしたがらない
「普通の人」は、極限まで便利を追求し、少しでも不便なことをしたがらない傾向が強いです。
便利であること、つまり効率化を図ること自体は素晴らしいことです。プログラミングのような不便で面倒なものは、どんどんAIなどで便利になるべきです。
しかし、行き過ぎた便利は、むしろ不便になる、あるいは不幸を招くことがあります。



んで本当に一番の問題は、「味を薄くする」ことです。
SNSのアルゴリズムは、あなたが興味を持つ情報を勝手に選び、次から次へと与えてくれます。
これにより、自分で情報を探し、判断するという不便さが失われ、思考停止を招きます。
フードデリバリーは、料理をする手間を省きますが、食材を選び、手を動かし、誰かと食卓を囲むという、人間にとって必要な「濃い味」の経験を奪います。
便利に行き過ぎることで、私たちは待つこと、考えること、五感をフルに使うことを忘れてしまいました。
その結果、目の前の便利さに慣れてしまい、人生の「味わい」が薄くなっているのです。
いま足りないのは、この行き過ぎた便利さに「対抗する」ものが少ないことです。
不便さを楽しむ、手間をかけることで得られる価値を再認識する、そうした新しい価値観を「普通」の中に組み込む必要があります。
大学に行くことは当たり前という考えを持つ人が多い
「普通」とされる価値観の一つに、「大学に行くことは当たり前」という考えがあります。



えー?でもこれ世界どこでもそうじゃない?



まあ日本に限らず世界どこでもそうだ。
けど、他の国の場合は無償だったり、収入アップで期待はできるからそれは良いが、日本の場合はそうもなく実質義務化されている。
近年、大学へ行かないという選択をする人は増えてきましたが、それでも「大学へ行ったほうが就職に有利だ」「大卒でないと人並みの生活は送れない」という思想は根強く残っています。



本当にそれは自分のためであるか?
正直に言って、「就職のため」という理由だけで大学に行くことのメリットは、昔に比べて非常に少なくなっていると言わざるを得ません。
- 多額の学費(借金)を負うリスク。
- 4年間という貴重な時間を、必ずしも役に立たない講義に費やす機会費用。
- 社会で求められるスキル(プログラミング、WEB3の知識、創造性など)は、独学や専門的なスクール、実務経験からの方が遥かに早く習得できるケースが増えている。
もちろん、特定の専門分野を深く学ぶ、あるいは哲学や教養を身につけるといった目的であれば、大学は素晴らしい場所です。
しかし、「普通だから」という理由や「就職に有利そうだから」という曖昧な理由で進学することは、コスパが悪いどころか、時間の浪費になるリスクがあります。
創造性がなく頭が硬いし流行に弱い
これは創造性やゼロから生み出す力がないという、日本人の「普通」の考え方が招いている傾向です。



平均的な基準で判断しがちなんよ
「実際に稼げそうだから」「皆がやっているから」という理由で流行に流れて行動する人が本当に多いと感じます。
最近の例で言えば、特定のゲーム機の新作情報(例えばSwitch 2)が出れば皆が話題にし、季節のイベント(インスタ映えする桜や紅葉)があれば皆が同じ場所で同じ写真を撮る。これは、皆が同じ「普通」の型に収まろうとする結果です。
特に、新しい技術(ITやWEB3など)に関しては、「誰かが成功するまで動かない」「リスクを取りたがらない」という姿勢が顕著です。
創造性とは、誰もやっていないこと、不確実なことに飛び込み、失敗から学び、ゼロから新しい価値を生み出す力です。
日本の歴史を振り返ると、明治維新以降の中央集権的なシステムはむしろイレギュラーであり、それ以前は各藩が独立した文化を持つ分散国でした。この分散型社会こそが、日本の創造性の源泉だったはずです。
私たちは、皆が同じ方向を向く「普通」を脱し、個々人がユニークな発想や創造性を発揮できる社会を目指すべきです。
これは、WEB3のような分散型の技術とも相性が良いはずです。
見た目を先行に気にする
日本人は、とにかく見た目を気にしすぎで、見た目で人を判断しすぎです。
就職活動でのスーツ、オフィスカジュアル、TPOをわきまえた服装、髪型、化粧。
これらは社会生活を送る上で一定の役割を果たしますが、日本の場合は、中身よりも見た目が先行して評価される傾向が強すぎます。



結婚生活とかもこれで判断する人も実は割と多い
「普通の人」は、清潔感がある、流行に乗っている、高価なものを身につけている、といった見た目の要素を、その人の能力や人柄の主要な判断基準の一つにしてしまいます。
しかし、見た目なんて、判断基準の一種類でしかないはずです。
天才的なプログラマーがTシャツとサンダルで仕事をしていたり、
創造的なアイデアを持つ人が地味な格好をしていたり、
ということはごく普通にあります。
本質は、その人が何を考え、何を創造し、どんな価値を提供できるかです。
見た目は、その本質を覆い隠すベールに過ぎません。見た目ではなく、中身で勝負できる社会こそ、創造性を育む土壌となります。
違和感を有するものはとにかく排除したがる
「多様性」が叫ばれて久しいですが、実際に日本の「普通の人」は、「普通」の枠から少しでも違うものに対して、強い違和感を覚え、そして排除したがる傾向があります。
これは、日本の社会が同質性と協調性を極度に重んじるがゆえに起こる現象です。
例として、ニートや専業主婦、独身であること、特定の障害を持つことなどが挙げられます。
- 「ニートはけしからん!働け!」
- 「子どもを産まないなんて異常だ!」
- 「なぜ皆と同じようにできないんだ!」
といった考えは、この「普通の枠から外れる者への嫌悪感」から生まれています。
対立的な距離が比較的小さい(誰もが「自分は普通だ」と思いたい)からこそ、自分と違う要素を持つ人を排除することで、自分の「普通」の立ち位置を強固にしようとする心理が働きます。
しかし、イノベーション(革新)は、「普通」ではない場所、つまり「違和感」の中から生まれるものです。
皆が同じであれば、新しい発想は生まれません。
違和感を排除するのではなく、「面白い視点だ」「新しい可能性だ」と受け入れることができれば、日本社会の創造性は飛躍的に向上するはずです。
まとめ:AIでは書けない、あなた自身の「普通」を
ここまで、日本人が共通して持ちがちな「普通の人の基準の価値観」を見てきました。
- 労働することの価値が異常に高い。
- お金への依存と思考停止。
- 行き過ぎた便利の追求による味の希薄化。
- 無思考な大学進学への偏重。
- 創造性の欠如と流行への弱さ。
- 見た目先行の判断基準。
- 違和感を持つものへの排除傾向。
これらの「普通」の価値観は、私たちが長年かけて築き上げてきた中央集権的で均質的な社会が作り出した呪いです。
この呪いを解き、創造的で、労働に縛られない自由な生き方を実現するためには、私たち一人ひとりが、「普通」の枠を疑い、自分の違和感を信じることから始める必要があります。
お金に依存せず、時間と精神的な豊かさを追求する。
不便さの中に「濃い味」を見出し、ゼロから生み出す力(創造性)を恐れず発揮する。
そして、WEB3という新しい技術を使って、分散型の社会を自分たちの手で作り上げていく。
あなたのブログで、あなたの「普通ではない」視点をどんどん発信してください。
それが、日本の「普通」の定義を変え、より良い社会を作る創造性の第一歩になります。


